既に日付も変わったと言うのに何時までも明かりが消えることがない、喧噪に満ちた街、新宿。
ふと辺りを見渡せばいつもより車の交通量が多く、年の瀬が近いことに今更ながら気づく。
最近は朝晩の冷え込みがめっきり厳しくなってきた。白い息を手に吐き、かじかむ手の平を温める。
黒鋼は、自宅の周りをあてもなく歩いていた。元々人ごみが嫌いだから、自宅付近といえど新宿をうろつくことは殆どない。
だが今日は、都会の喧噪に紛れているほうが落ち着く。酒でも飲みたい気分だが、明日も仕事が早いからそういうわけにはいかない。
今日、手術で人が死んだ。
別にはじめてのことではない。何人目なのか、数えてみてもむなしくなるのでわからないが、決して少ない人数ではない。
だがいつまでたっても『人の死』に慣れることはない。
『人を殺してはいけない』など、幼稚園生でも知っていることを医者は守れないのか。
別に自分が悪いと自己嫌悪に陥っているわけではない。だがやはり、心のどこかにわだかまりが残ってしまう。
心ここにあらずのままふらふらと歩いていると、いつの間にか裏道に入ってしまっていた。飲食店の裏なのか、食べ残しのゴミなどが無造作にポリバケツに突っ込んである。
引き返そうとするが、周りに見慣れた景色はない。どうやら迷ってしまったらしい。
仕方なくこのまま進もうと足を進めたとき、ここでやっと異変に気がついた。
周りに、音がない。
全くの無音。
裏に入ったからといってここは新宿である。喧噪が掻き消えるだけならまだしも、人の足音、電車の音、ましてや風の音まで消えることがあるだろうか?
思わず空を見上げて、そのまま左右に視線をさまよわせる。しかし、前方左右、別に変ったことはない。
首をかしげていると、突然地面に人の気配が現れた。
反射的に下を見やる。
すると、今まで黒鋼以外人の気配すらなかったこの場所に、突然金髪で痩身の男がパタリと倒れていた。
―繋―
男はこの寒いなか、薄いロングTシャツ一枚とジーンズしか穿いていない。
よく見ると長身であることがわかる。そして、元からなのが寒さのせいで度を越しているのか、肌が色白を通り越して真っ白だ。
黒鋼は、この異常事態に自分がさほど驚いていないことに驚いた。
そして、『倒れている人間』を見ているのに、自分が呑気に観察しているのにも。
気がつくと、周りに雑音が戻っていた。風の音が戻り、うるさい喧騒が聞こえ、そして人の足音が近づいてくる。
―こいつを人に見られてはいけない。
見知らぬ場所で見知らぬ人を助けてやる義理などないはずだ。見知らぬどころの話ではない。突然降って湧いてきた、まさに『異常』のかたまりだ。
だが、何故だろう。この男に、酷く惹かれる。
こいつを誰かに渡すと大変なことになると頭が警告してくる。
そうこうしているうちに、だんだんと人が近づいてくる。
―嫌な予感がする。
そう感じながら、黒鋼は男の腕をつかみ引きあげると肩へ担いだ。しばらく悩んだ末、結局自宅へ戻ることにした。
体がふわふわと浮いている。
あたりは一面真っ白な世界。見渡しても何もない。色さえもない、ただ真っ白な世界。
―此処は?
わからない。今まで自分が何をしていたのかも思い出せない。
―オレは誰?
その考えにぞっとする。自分が誰かもわからない。
突然、頭に激痛が走った。思わず頭を抱えると、どこからか声が聞こえてきた。
「…ゎせ。こわせ。壊せ。」
声がガンガンと頭に響く。反響する。
「壊せ。破壊しろ。世界の全てを壊しつくせ。」
頭が痛い。声を直接脳みそに叩き込まれている感覚がする。
「壊せ。」
その声にひかれるように白の世界に少しずつ色がともり、周りが徐々に形を成していく。
まだ意識がない男を取りあえず寝かせようと、ソファの上に置いてあったものを無造作に払いのけ、そこに寝かせた。
顔色が悪いのが気になり掛け布団を上からかぶせたがそれ以外はなにもせず、部屋の奥に置いてあるソファとは反対の方向の、ソファから一番距離がある場所に腰をおろした。
それから既に2時間は経っている。
嫌な予感は消えていない。そしてこの男を信用しているはずもない。
机の上の引き出しから刃が長く鋭利なナイフを取り出してきて、そばに置いてある。
すると、男がゆっくりと目を開いた。
うつろな目で天井を眺める。
しばらくそのままぼんやりしていたが、だんだんと目の焦点があってくると体を起こし、そして、部屋の隅に座っている黒鋼を見つけた。
視線が合う。
殺気が起こる。
黒鋼に緊張が走り、ナイフを握る。
―途端、ソファから男が忽然と消え黒鋼の前に現れると、首を物凄い力で絞めてきた。
眼には感情がともっていない。何も写していない金の瞳。首元に指が食い込む。
が、見るからに力でその男が黒鋼に勝るはずがない。
一瞬にしてねじ伏せると、そのまま床に叩きつけて、ナイフを首元に突き付けた。
「突然何しやがる」
男を睨みつけながら言うと、すると突然男から殺気が消えた。
瞳が揺れる。動揺している。今度は動揺するという感情をあらわにしている。
思わず身構えてしまう。
そして、色のない震える唇から言葉が漏れた。
「…、オレを、殺して」
「…そのまま、その、ナイフで、刺して」
黒鋼はあまりの変化に驚いた。人格がさっきまでとは全然違う。
男は黒鋼にはおかまいなしに言葉を続ける。
「このまま殺して、今のうちに…、また、破壊しようとしないうちに…っ」
茫然としていると、男は手をのばしてナイフの刃を直接つかみそのまま突き下ろそうとしてきた。
反射的にナイフを奪い、今度は左右の二の腕を押さえつける。
「オレは、世界を…壊すために、作られた、モノだから…、
このまま、生かしておくと、破壊しつくすまで、止まらない、から、
……だから、殺せ…!」
叫びにしては小さい、喉から振り絞ったような掠れた声。
切羽詰ったように、自分を殺せ、と願う人を、黒鋼は初めて見た。
仕事柄、足掻いてでも生きようとする人しか見ることがない。
殺せと言うこいつがあまりにも必死で、だから、
「殺さない。もう人を自分で殺したくない。」
と、思わず答えてしまった。
腹が立つ。簡単に殺せと言うその口が。死にたいと願うくせに、それを口に出すときの生気に溢れたその目が。
それに何故だろう。怪しいだけのこの男にこんなにも惹かれてやまないのは。
惹かれる、というのは妥当な表現ではないかもしれない。好きや嫌いの感情ではない。
怪しい人物であることに変わりはなく、信用もしていない。
だが、さっき口にした「破壊」を止めなければならないと、頭の中に何かが攻め立ててくる。
「破壊」というものが何なのかは全くわからない。
だがどうしても、その言葉が耳に残って離れない。
破壊を止めなければならない。
死なせてはならない。
そう、どこからか告げてくる。
静寂が部屋を覆った。
押さえつけている男のあがった息遣いも、だんだんと落ち着いてくる。
「…アンタを殺す以外、何か方法はないのか」
静寂を破ったのは黒鋼だった。
だが返事はない。
視線が逸れる。明らかに動揺した顔が伺える。
しばらく無言で睨みつけていると、やがて観念したかのように、
「………、ひとつ、だけ」
喉が乾燥しているのか、やはり少し掠れた声のまま呟いた。
「誰か、血をくれれば。
…少しでもくれれば、それがオレの『リミット』になる。」
それを伝えたときの金の瞳は不自然なくらい無感情で。
一時前までの錯乱していた表情さえ消え失せている。
しかしさっきの、突然襲い掛かってきたときのような危険さはない。
自分で感情を押し殺しているらしい。
「…じゃあ、俺の血を飲めばいい」
「そんなことしたら、アンタはオレから離れられなくなっちゃうよ。オレはアンタを殺そうとするかもしれない。
…『破壊』を『制限』する人を『破壊』しようとするのは当然でしょ?
だから、」
「アンタは俺を殺せねぇ。だから問題はない」
言葉を遮られた方は、驚いて目を見張る。
しばらく目を白黒させていたが、
「どうして、見ず知らずの他人をそんなに助けようと思うのかなぁ?」
返ってきた答えは、緊迫した雰囲気に似合わず妙に間延びした問いだった。
「アンタは『人を殺してはいけない』という暗黙の了解を知らねぇのか?」
それにつられて、答えにもなっていない、さっき街をふらつきながら思っていた言葉を口にしてみる。
すると金髪の髪がかすかに揺れ、瞳の形が歪み、男はにっこりほほ笑んだ。
優しい笑顔。
だけど、泣きそうな顔にもとれる笑顔。
「じゃあ、契約成立、だね。
…後悔しても、知らないよ」
そう言って目を閉じると、口だけが滑らかに動きだした。
「I want your blood. Give it to me.」
奇麗な発音だった。
金髪金目の持ち主なのだ、外国の人間だと考える方が筋が通る。
そして、男はさっき取り上げたまま投げ捨てていたナイフを持つと、そのまま刃を黒鋼の手首に当て滑らせる。
少しだけ、傷口からぷくぷくと血が滲み出る程度だけ切ると、そのまま軽くそこに口づけた。
途端に、金の瞳が紅色になる。
だがそれは一瞬で、すぐに瞳が蒼色に変色した。
薄い蒼。少しでも色素を無くすと、すぐにでも金色に戻りそうな薄い蒼。
―目の色があることが、『リミット』が効いている証拠なのか。
一連の行為をじっと見守っているだけだった黒鋼は一瞬で理解する。
与えたものは、ほんの少しだけだ。
「…これでアンタは、オレから逃げられなくなっちゃったね」
血を飲んで少しだけ落ち着いたのか、さっきよりは落ち着いた声音で呟く声が聞こえる。
だがその表情は、やはり泣きそうな笑顔でこちらを見ていた。
NEXT?