いつもへにゃへにゃと笑っている魔術師の、小さな異変に気づいたのはいつ頃だったか。
話しかければいつも通りの反応が返ってくるし、人をからかう言葉も、妙なあだ名で呼んでくる処もなんら普段と変わりはない。
ただときどき、ふと気がつくと能面のような表情でボーっとしていることが、ある。
コートについているフードを目深にかぶり、その端を両手で握りしめながら、ただ前方に降り積もる雪を眺めている。
最初はあまり気にならなったその異変も、時が経つにつれ目に見えておかしくなってきた。
ボーっとしていることが多くなる。
しまいには、歩きながらふらつくようになっていた。
ファイが毎晩眠れずにいることを、黒鋼は旅の最初のころから気づいていた。
忍者である黒鋼は、人の気配に敏感である。
寝室が同部屋になることが多かった魔術師は、部屋の明かりを消すとすぐに横になってそのまま身動き一つとらなくなるけれど。
それで寝たふりをしているつもりなのか、起きていることは一目瞭然だ。
寝る態勢に入ると魔術師はいつも横を向いている。
この国は雪が降り積もるくらい寒い国だから、布団を顔の半分が隠れるくらい被っていてどんな格好かは見えないが、一度暑い国を訪れたときは、左右の手首、左右の足をぴたりと合わせて横になっていた。
その様は、まるで、囚人のようで。
足を縛られ、手首を縛られ、檻の中から決して出ることはなく、一生罪を償いながら生きていく。
その様子に酷く似ていて。
この魔術師は、何かの罪に囚われているのだろうか。
―縋―
窓の外を見ると、あたりは真っ暗な世界が広がっていた。
月明かりも、心もとないほどの明るさしかない。雪は止んだらしいが、まだ薄く雲がかかっているのだろう。
寝る態勢に入るため暖炉の火を消したから、部屋の中だというのに吐く息は真っ白だ。
部屋の明かりを消してベッドに入る。
「いい加減今日は寝ろ」
「…なんだ、寝てないこと気づいてたのー?」
危うさを見せ始めた魔術師にそう声をかけると、返ってきた返事はイライラさせるほど間延びした言葉だった。
昼間はふらつくほど眠そうなくせに、寝室に入り明かりを消した途端目が冴える。
これを、既に何日繰り返しているか。
「気にしないで寝ていいよー」
「そのうち倒れるぞ」
「でも眠れないのは仕方ないしー」
返される言葉にはやんわりと拒絶が含まれている。
それに気付かないほど黒鋼は鈍感ではない。
知らず知らずのうちに溜め息が漏れた。
「…人がいるから眠れないのか」
「わかんないけど、もしかしたらそうなのかもー」
「“人間“がそんなに怖いのか」
いい加減腹が立ち、わざと踏み入った言葉をかけてやると、案の定、相手は口を閉ざした。
辺りにぴりりとした空気が張り詰める。
「…別に。人間は怖くないよ?」
「じゃあ何が怖いんだ」
―怖いのは、黒鋼だ。
そして自分自身も。
「別に、黒様には関係ないでしょー」
ファイにとっては、夜は一人で居るものだった。それが、旅が始まると仕方のないこととはいえ、いつも誰かが傍にいるようになった。
それも、一番多いのがこの忍者で。敵かもしれない、この人で。
下手をすると、殺さなければならないのに。
そんな人が、普段は誰の侵入も許さない時間帯に当り前のように一緒にいる。
心を許した人としか過ごせない時間に、一番心を許してはならない人が傍にいる。
そんな違和感がだんだんと麻痺してきて、すっかり心を許してしまっているような、そんな錯覚すら起こってしまう。
そしてそれが、だんだんと錯覚ではなくなってきて。
「何も怖くないよー?ただ緊張しているだけだよー」
いつだったか、黒鋼と同じ寝室に割り当てられると安堵する自分に気づいた。そして愕然とした。
いつの間に自分は気を許してしまっていたのだろう。
元々人がいるところでは眠ることが出来ないファイが、この日からはさらに自分から眠りにつくことを禁じてしまった。
人の前で眠りにつくことは、相手に気を許してしまうことだ。
そんなことは、断じてあってはならない。
ぴりりとした空気を発しているくせに、平静を装っていつも通りの返事をしてくる魔術師に呆れて、黒鋼は盛大に溜め息を吐いた。
「埒があかねぇ。俺はどこか他の場所で寝るから、取り敢えず寝ろ。倒れられても迷惑だ」
突然出された打開案に驚き、ファイは思わず体を起して相手を凝視する。
「って、他に休めるような部屋はないよ?だったらオレが廊下で寝るから」
「昼間ふらふらしていた奴が何言ってやがる」
「でも寒いし、部屋から出たら風邪ひいちゃうよー」
雪は止んだとはいえ、外の気温は氷点下にまで下がる。そんな国で、たとえ屋内とは言え、廊下で一晩を超すとどうなるかなんて目に見えている。
「オレは本当に大丈夫だから、黒様気にしないで先に寝て?」
お願いだから、オレに構わないで。
気を許したくもないし、それにたとえどんなに小さいことだろうと、相手を不幸にしてしまうことは、それ以上に耐えがたい。
言葉も口調も普段通りなのに、声色にその必死さが混じってしまったのか、黒鋼はそれ以上何も言わず口を閉ざした。
そして再び溜め息を吐く。
この魔術師と居ると、何回溜め息を吐くかわからない。
「…じゃあ、おまえが寝るまで見といてやる」
しばらくして黒鋼から発せられた言葉の意味が一瞬理解出来ず、ファイは思わず目を白黒させた。
「………えええっ?!」
「確認しないと本当に寝たかわかんねぇだろ」
「え、でも」
「いいからさっさと目ぇつぶれ」
そうやって、いつも許可なく人の中に入り込んでくる。
もう放っておいて欲しい。ここで自分が根負けして寝てしまうと、一層自分で引いた線があやふやになってしまう。
これ以上居心地をよくしてしまわないで。これ以上近くにこないで。元に戻れなくなってしまう。
―黒鋼にこんなにも惹かれてしまっていることを認めるのは、いっそのこと、恐怖に近い。
どうして黒鋼が見ているからといって、自分が眠れることに繋がるのだろうか。
真っ直ぐで何の思惑もない、これ以上考えるのが面倒だからという理由で口走っただけのような解決案が、ある意味ではとても黒鋼らしい。
だが、その『見ているから』という言葉でどれだけ魔術師が動揺するか、忍者はそこまで理解しているのだろうか。
「……はぁ」
ファイから溜め息が漏れた。溜め息を吐きたいのはこっちのほうだと、黒鋼は心の中で毒づく。
視線が怖かった。
紅い瞳が、ただ真っ直ぐと、静かに魔術師を射抜く。
何も知らない筈なのに、全てを見抜いてしまっているような視線。
そっと黒鋼の顔色を伺うと、今度は紅い瞳が蒼の瞳を射抜き、堪らずに瞳を閉じた。
視界が真っ暗になっても、まだ体が視線を感じる。
だけど、暗闇の中で感じる視線は、さっきまでとは打って変わってとても温かいものだった。
そう感じてしまったことに驚き、慌ててその考えを振り払う。
だがそもそも、瞳を閉じてしまったこと自体が間違いだった。
何日も殆ど眠らずに過ごしてきた体は、意志とは反対に眠りに導こうと頭が朦朧としはじめる。
眠ってしまったら、踏み越えてしまう。
元に、戻れなくなってしまう。
このままずるずると、黒鋼の侵入を許し続けていくことになるかもしれない。
そんなことだけは、あってはならないことだったのに。
いったい、いつから狂ってしまったのだろうか。
何も考えられなくなるほど朦朧としてしまった頭で、それでも最後の抵抗で薄く瞳を開けると、そこにはさっきまでと全く変わらない紅の瞳があり。
そのとき何かが、壊れてしまった。
…そして、魔術師はとうとう意識を手放した。
しばらくして、うつぶせに寝がえりを打った魔術師の肩が、規則正しく静かに上下していることを確認し、黒鋼はようやくほっと息を吐いた。
自分も布団にもぐりこみ寝る態勢を取る。
なんだかとても疲れてしまった。瞼が重い。当たり前だ、夜ももう遅いのだ。
「…ったく、世話が焼ける」
本当に、この不器用な魔術師は。
fin.
↓後記。
温かいほのぼの話を書こうとしていたのに、いったいどうしてこんなダークな話になってしまったのか(…)。