ぽたぽたと赤い血を滴らせながらやってきた来客を見やり、ファイは微かに苦笑いを浮かべた。

本当に、しょうがないな、と。
毎晩怪我をしてこの家に現れるたびに、心の中でこっそりと責める。

この部屋には毎日、深夜という一般的には非常識な時間帯に、来客がある。彼がこの部屋に転がりこんでくるようになってどのくらい経つだろうか。怪我をしたまま街をさまよっていた彼を偶然見付けて、それを無理矢理家に連れ込んで手当てをした日が、事の始まり。始めは引きずるようにして連れてきたが、そのうち自分から現れるようになって。そうしていつの間にか、深夜に彼が訪ねてくることが日課となっていた。

玄関先で座り込んだままの来客者から視線を外し、部屋の奥にある白いローチェストの上に手を伸ばす。そこに常備してある、幅三十センチ程の木箱を持ち上げた。
救急箱など普通の家ではごくたまにしか使用する機会が無いだろうが、ここでは最低でも一日一度の使用頻度である。ゆえに消費量も激しいから、毎日必ず救急箱の中身の残量をチェックする癖が、いつの間にかファイに出来てしまった。今日も、昼に新しい包帯を補充したばかりだ。

「いつまでそこに居るの、早く中に入って」
「ごちゃごちゃうるせぇな」

返ってくる声は相も変わらずぶっきらぼうだが、今更その点について何も言うことはなく。おいでおいで、と手招きをすると、ぶっきらぼうながらも素直に部屋の中へ入ってきた黒鋼に、ふっと顔が綻んだ。

「毎日怪我するまでよくやるね」

はい、腕見せて、と左腕を引っ張ると、無数の切り傷から、赤黒い血が腕をつたい滴っていた。毎日怪我するくせに、そこが治りきる前に黒鋼は新しい傷を作ってしまう。今日も例外ではなく、血の出処は新しく作ったものだけではないようだ。

「今日は、どうしたの?この怪我の理由は何?」
「……」

黒鋼が怪我をしてこの部屋に訪れる度に、繰り返される、問い。しかし答えが返ってきたことは一度もない。そんなことなど百も承知で、それでもファイは毎日この問いを繰り返す。

返事を聞く為ではなく。
大事なのは、それを聞く人がいるということを、示すこと。

「ねぇ、何?」
「しつこいなてめぇも」

拒絶しながらも、左腕は大人しくファイに預けたまま。言葉の内容とは似合わず棘の含まれない声色に、またも顔が綻んでしまう。

「そういう君は強情だね」

するする、と、慣れた手付きで傷口を包帯で塞いでゆく。長い間毎日手当てしているのだ。お陰さまで、下手な看護師よりも上手く巻けると自信が持てるまでになってしまった。

「はい、出来たよ」

ポン、と一度軽く叩き、きつく包帯の巻かれた左腕から手を離した。
―きっとその包帯も、明日の朝には解かれてしまうのだろうけれど。

にこ、と黒鋼を覗きこむと、絡み合うのは紅の瞳。相変わらずの仏頂面で、表情から感情は伺えないけれど。

しかし瞳を覗くと露になる、一つの感情。

初めて黒鋼を見た時からずっと、変わることはない、それ。
紅の瞳に宿るものは。
自分には計り知れない程の、深い、憎しみが。
それは初めて彼を見た時から、一目で、一瞬で、自分の心を掴んでしまった程の。紅の瞳はとても綺麗で、しかし憎しみという感情を一層引き出してしまう色でもあった。傷だらけの体から流れる血と、瞳の色が混ざりあって、それは色濃く現れていて。
だから、声をかけたのだ。彼を遠巻きに見ているだけの人波を割って、近寄って。

人がこんなにも、偽ることなく怒りの感情を露にすることが出来ることを、自分はすっかり忘れてしまっていたから。果てしなく続く長い時の中で、何かに対し怒ることも、寧ろそれを感じることすらも、無意識のうちに止めてしまっていたのだ。この世界が、どうしようもないほどがんじがらめに絡まっていて、何も救いはないことなど、痛いほどよく知っているから。
怒りなど、あるだけ無駄だと、悟ったから。

でも、だからこそ。
こんなにも何かを憎んでいる彼が、とても、眩しく見えてしまって。

「黒たんは、いったい何がそんなに気に入らないのかな?」

使った道具を救急箱に片付けて、元の位置に戻そうと、腰を上げた。あまり大きな声ではなく、独り言として発した声は、だがしっかりと相手に届いてしまったらしく。

「……何が言いたい」

不機嫌な声が返されてしまった。

「何が言いたいって、そのままの意味だけど」

今までに一度だって、黒鋼の過去も毎晩の怪我の理由も教えてくれた事は無い。だがそれは、自分も同じだ。自分が決して死ぬことはない、不老不死に近い人間だ、とか。既に何百年も生きていることだとか。そんなことを相手に言える筈がなく。黒鋼に自分の深いところにまで入らせない変わりに、自分も黒鋼の本質の部分まで立ち入ろうとは考えていない。
だからこの言葉は、知りたいことではなく必然的に心に浮かぶ疑問であり、本当に尋ねようとした訳ではない。

絡み合ったままの視線の先には、相変わらずの、赤い瞳。
その先に映るものが何であろうと、それでもしっかりと前を見据える力強い瞳を、愛しいと感じ始めたのはいつ頃だったか。
そして何かに突き進む彼を、少しでも守ってあげることが出来ればと。

お互いに立ち入ろうとはしない癖に、それでも毎晩、訪ねてくるから。

自分に背を向ける形であぐらをかいている黒鋼を見ていると、何とも言えない愛しさが胸に込み上げてきて。

背後から、そっと近づくと。
唐突に、ぎゅ、と抱きついた。








「黒たん、すきだよ」

がっしりとした肩の上から腕を回し、右から顔を覗かせて。

「すき」

ゆっくりと、言い聞かせるように。傷だらけの体を、優しく包みながら。

「だーいすき」

そして、黒の無造作な髪に手を当てて、よしよし、と頭を撫でた。

怒りと憎しみに囚われてしまった心に、少しでも潤いを与えてあげられるのなら。
彼はきっと、誰かに好きと言われたことなど、無いだろうから。

「……頭を撫でるな、そして抱きつくな」

抗議の言葉を言うくせに、腕を振り払おうとはしないから。もっともっと力をこめて、離れるつもりは無いと意思表示して。

「黒様は、そのままでいいんだよ」

怒りでも憎しみでも、その感情を持てる大切さを、自分はよく知っているから。

「意味わかんねぇよ」
「だからそのままの意味だってば」

誰に嫌われようと憎まれようと、オレだけは、いつだって君を受け入れるから。

「あ。でも、出来れば怪我はして欲しくないな」
「言ってることが違うじゃねえか」
「だってやっぱり、心配だし」

横を向いた顔と目があって、えへ、と笑みを溢して。








「ずっと、ずーっと、黒様が死ぬまで、オレが見守っててあげるからね」








度々伝えるその言葉を、相手はあまり信用していなかったけれど。それは決して嘘ではない。
きっと自分はいつまで経ってもこの姿のままで、そのうち相手に気付かれてしまう時が来るだろうけれど。

それでもずっと、君の傍にいたいから。

  ―守られているのも、救われているのも。
きっとそれは、自分の方なのだ。

 



「だいすきだよ」





呟く言葉が、静寂の中に溶け込んでゆく。








―fin―

 






後記↓
4554hitキリリク、『黒鋼を甘やかすファイ』でした。おまたせしてしまい申し訳ありません…!
リクの内容を見て真っ先に浮かんだものが、『世間を知ってる黒鋼』と『世界の本質を知りすぎているファイ』だったんですがどうにも設定を生かしきれませんでした。今の私にはこれが精一杯です、残念賞!(…)
どうも『甘やかす』の意味を大分履き違えているような気もしますが(←)、よろしければどうぞお受け取り下さいませ。
リクエストありがとうございました!