授業も終わり、部活動の時間も終え、生徒の姿もまばらになった頃。
黒鋼は長いこと睨み合っていたパソコンを叩く手を止め、ようやく電源を落とした。
気がつけば、外は黒に変色する一歩手前の暗い灰色の世界。
どんよりとした曇り空の今日は太陽を知らず、朝も昼も灰色だったから夜の訪れに気付かなかったのだ。
少し肌寒さを感じ、いつも身に纏っている黒いジャージに袖を通す。段々と肌寒い季節になってきた。
今日は一週間の真ん中である水曜日。
折り返し地点であるこの日は、実は週末よりも疲れが出やすかったりする。
怠けそうになる体を叱咤しながらパソコンに向かい続けていた自分を労わるように肩を軽くほぐし、ようやく帰路につこうと黒鋼は席を立った。
そういえば、いつもは仕事中だろうが構わず話しかけてくる化学教師の姿が見当たらない。
家が隣どうしだから、一緒に帰宅することが多いのだけど。
小奇麗に整えられたファイのデスクを見ると、昼には椅子に掛けられてあった筈の上着が姿を消しており、そして手荷物の姿もなく、少し訝る。
先に、帰ったのだろうか。珍しいこともあるものだ。
ふと、嫌な予感が頭をよぎった。
ここ最近気になることがあったのだ。
嫌な予感は、予感に留まらずおそらく現実になっているだろうことを容易に想像出来た黒鋼は、家路につくその足でファイの家へと向かうことにし、足早に学園を後にした。
―メランコリー―
化学教師の家をノックもせずにドアノブを捻り、勝手に家に上がりこむと、案の定、奥の部屋からケホケホと咳が聞こえてきた。
普通の咳ではない。
病的で、怪しい咳。
嫌な予感はものの見事に的中していたことを知り、舌打ちをしつつ慌てて部屋に入ると、ソファに寝そべっている苦しそうなファイの姿を見つけた。
職場から帰ってきて着替えもしていない。上着だけは床に脱ぎ捨ててあるが、後はシャツの首元のボタンを二つ外しているだけだ。
「おい大丈夫か」
「あ、黒たんおかえりー」
思わずかけ寄り声をかけると、喉をひゅうひゅうと言わせながらいつものように返事をしてきた。
ファイは、元々気管が人より弱い。特に気圧の変化に敏感だ。
今にも泣き出しそうな曇り空だった今日は、つまりは低気圧であるということを意味しており。
けれど、気圧が下っただけで寝込まなければならない程重病ではなかった筈だ。
そう尋ねると、
「んー、少し風邪気味だったんだー。そこに気圧の変化がきてー、しかも隣に居た人が思いっきり煙草吸ってて、その煙吸い込んじゃってー」
と、掠れた声が返事をした。
つまり、二重にも三重にも悪循環が重なってこんな状態になってしまったらしい。
風邪をひいたことも、気管を壊したことも大問題だ。
しかしこの状態は、風邪とはまた別の問題が出てくることも意味している。
喋れなくなる程の発作は起きていないらしいが、ひゅうひゅうと苦しそうな音を発しながらも、何でもないことのように振舞う、その、態度。
ファイの辞書には、『頼る』という言葉は存在していないのだ。
そう考えていた矢先、空気を吸い込むこともままならない化学教師が、たどたどしい動きで体を起こそうとした。
「何するんだ」
「ん、加湿器つけようかなって」
「俺がつけるから寝てろ。その状態で動かれる方が迷惑だ」
わざとキツイ言い方をすると、ファイは少し戸惑いつつも大人しく起しかけていた体をソファに沈めた。
この化学教師の扱いには少しコツがいるのだ。
加湿器をつけようと立ち上がると、背後からファイの声が追ってきた。
「黒たんごめんね、折角来てくれたのに」
この謝罪の次に言われる言葉なんて、黒鋼は容易に想像できる。
「ここに居ると風邪移しちゃうかもしれないし、オレあんまり喋れないから黒様つまらないだろうし、今日は隣に帰ったほうがいいよー」
頭の中で想像していた通りの台詞を、一字一句間違えずファイが反芻した。
普段はうんざりする程人に纏わりつくくせに、こういうときは人を突き放してくる。
しかも性質の悪いことに、本人に人を突き放しているという自覚はない。
―そして人を突き放してくるときは、たいていこの化学教師が無理をしているときだ。
ファイは人に頼らないことに比例するかのように、無理をしやすい。
自分が無理をしているという自覚すらないまま、平気で無理をする。
おそらくは不安定であろうその心を、自分がどれ程駆使していいか、追い込んでいいか、抱え込んでいいか、その境界線がわからないのだろう。
顔に張り付いている笑顔が作りものだということは、知りあってすぐに気がついた。
その笑顔の裏におそらくはどろどろとした感情が潜んでいるであろうことも、すぐに想像がついた。
そしてそれを、絶対に人に見せようとはしない。
それゆえに、すぐガタがくる。
だからいつも、この化学教師の些細な変化も見逃さないように注意していた筈なのに。
―そう、本当に問題なのは、こんな事態になるまで何も対処できなかった自分のふがいなさだ。
風邪を引いていることは気づいていた。へらへらと喋りかけてくる声が、いつもより掠れていたから。
ファイは喉から風邪を引きやすい。
気づいていて、気にかけていたのに。
それなのに、無理をすることを止められなかった。
一つや二つ、悪条件が重なったからと言って気管を壊すほどファイはやわじゃない。
そこにはおそらく、精神的なものも含まれているから。
「取り敢えず水を飲め」
帰れというファイの言葉をものの見事に無視しキッチンへ足を運ぶ。
ファイの言うことをいちいち真に受けていたら話がちっとも進まない。
気が利く理事長の計らいなのか元々寮に備え付けてある浄水器の蛇口をひねり、コップに半分ほど注いでファイの元へ戻ると、化学教師から苦笑いが漏れた。
「黒様はいつも強引だなー」
そうさせているのはこの化学教師なのだが。それを理解しているだけ、まだましなのか。
「オレ別に子供じゃないんだし、本当に一人で大丈夫だから、家に帰りな、よ」
言い終わらないうちにまたコンコンと咳が出た。
言葉すら上手く喋れない状態で、何をほざいているのだその口は。
「いいから黙れ。そしてさっさと寝ろ」
ファイの要望をことごとく無視して一喝する。
こうなれば無駄だと悟ったか、水を一口口に含んでグラスを黒鋼に渡し、ファイは大人しくなった。
喉を湿らせたからか、ひとまず咳は収まる。
しかし居座る黒鋼がまだ納得できないのか、ファイの視線を感じ、
「帰るのが面倒なんだよ」
とだけ声をかけておいた。それは見え透いた嘘だけど。
呼吸が出来ないということ。それはつまり、生命の危機にも繋がるということ。
食事を摂ることより、睡眠を取ることよりも、何よりも大事な。
命に直接かかわる器官の異常を目にして、それを気にせずこの場を去れという方が土台無理な話である。
本格的に諦めたのか無口になったファイの額に手を当てると、少し熱をおびていた。
言われてみれば、顔も少し赤みをおびている。
本格的に風邪の症状だ。
ソファに寝そべったままのファイにベッドに移るよう促そうと口を開いたが、ひゅうひゅうと鳴る苦しそうな息使いに動かすことがためらわれ、すぐに口を閉ざした。
しばらく思考を巡らせた挙句、仕方なくファイの体をひょいと軽々しく抱えあげ、そのままベッドへ移動した。
少なからず驚いたらしい化学教師は、体を小さく揺らして反抗してくる。
「じ、自分で歩けるよー」
「嘘つけ」
その反抗も、弱った体ではあまり意味をなさず、ファイは再び大人しくなった。
枕を高くしてやりそこに寝かせるとそのままの足で洗面所へと向かい、タオルを一枚取り出し冷たい水を湿らせた。
勝手知ったるファイの家。どこになにが置いてあるかは殆ど知っている。
きつく絞ってファイの元へ戻り額に当ててやると、それを受け入れつつも化学教師は居心地悪そうにわずかに顔をそむけた。
この化学教師がどうしてこういうときに人を寄せ付けようとしないのか。
その訳を、黒鋼はとっくに気づいていた。
おそらくファイは、自分が弱っているところを人に見られてしまうことが嫌なのだ。
自分の弱さを見られること、さらけ出してしまうこと。
それを恐怖と感じているのだろう。
そしてこれまた性質の悪いことに、自分で意識していない。
少々うんざりしつつも、それならばなおのこと遠慮することはないと、ファイが突き放してくるときこそずかずかと心に入り込んでいくことにした。
風邪を引く、ということですら、自分の許せない弱さと認識してしまうこの化学教師にとっては、おそらく苦痛以外の何ものでもないのだろうけれど。
そして今日は、多少なりとも自分に責任を感じているから、なおさら帰る訳にはいかない。
そっぽを向いてしまったファイの顔にため息をつきたくなるのを堪えて、傍に転がっていたクッションを手繰り寄せどかりと腰を下ろした。
「おまえは礼の一つも言えないのか」
仕返しに少し意地の悪い言い方をしてやると、
「んー…ごめんね黒たん、ありがとう」
視線だけをこちらに移して望まれた言葉を口にした。
こういうところは、素直なのだが。
ありがとうの前には何故か謝罪の言葉もついていたが、これはファイの社交辞令のようなものだから仕方ない。
黒鋼には一度も謝れといった覚えはないのだが。
「そのままさっさと寝ろ」
どうせその状態では食事は摂れないだろう。
それに、本当に精神的な無理からきているものならば、寝てしまうことが一番の薬になる。
その理由とやらは、体調が戻ってからじっくりと聞き出すことにして。
この化学教師が寝ろと言われて大人しく眠りにつける筈がなく、また喉が乾燥してきたのかケホケホと咳をしながら、もぞもぞと体を動かした。
居心地の悪さはそう簡単には取れないらしい。
「ねーやっぱりもう大丈夫だから、帰ったら?」
「嫌だ」
先ほどのコップを手渡しつつ、また押し問答が始まる。
「わがままだなー」
「どっちが」
「だから黒様が言うこときかないからー」
「いいから黙ってさっさと寝ろ」
ファイの言葉にむっとしつつも、未だひゅうひゅうと鳴る喉を使わせることに罪悪感を覚え、会話を遮った。
しかし、減らず口を叩けるようになったということは、少しはよくなってきているのだろう。
あるいは、こういう会話自体も薬になっているのかもしれない。
「…いつまでいるのー?」
そんな自分の状態にすら気付かずまだこんなことを聞いてくる。
本当に、不器用な奴だと黒鋼は思う。
人間関係というものを、知らなさすぎる。
ファイの過去に何があったかなんて知らないけれど。
しかしそれを知らないままだと、いつまでたっても先に進めない。
この化学教師の傍に居ようと決めたのは、自分自身だ。
そしてファイも、この体育教師の傍に居ることを、不器用ながらに選んだから。
まだこうやって拒絶してくるけれど。それでも以前よりは幾分ましになったほうだ。
地道に心を開かせるしかない。
問われた言葉に答えをやろうと、ファイの顔を覗き蒼の瞳を捕らえた。
そのまま、視線を逸らすことを許さないとばかりに射抜いたまま、
「おまえが目覚めるまで。ここに居るからな」
そう言って、また心の内側に踏み込んでやった。
捕らえたままの蒼の瞳が微かに揺れ、小さく見開く。
だが、その直後。
ひゅうひゅうと鳴っていた音が一瞬だけ途切れ、ファイの口が、すぅっと、たった一度だけ、息を、
―命を、吸い込んだ。
少しずつ人と向き合えるようになればいい。
自分が無理をすることに歯止めが効かないのならば、俺がいつでも見張っていてやる。
そうやって、自分の辞書に人との付き合い方の項目を増やしていけばいい。
体にガタがくる程の無理は、もう二度とさせないから。
「…黒様。ありがとう」
簡単に治る筈がない気管は、またひゅうひゅうと鳴りだしたけれど。
小さく小さく呟かれたファイの言葉。
それは、どこかぎこちなかったこの部屋の空気に暖かい色を灯す、不思議な力を持っていた。
―fin―
後記。↓
黒様保護者化に拍車がかかりました。頑張れ。
いろいろとねつ造しちゃいましたごめんなさい…。