今日一日、その力を惜しむことなく発揮した太陽も、気付けば地平線から半分ほど姿を隠してしまった。
紅い光が窓から差し込み、黒鋼の横に長い影を作る。
今日がバレンタインだ、と気づかされて、そう言えばと周りを見ると、女子生徒のいつも以上にはしゃいだ声や、男子生徒の表には出さぬも隠しきれぬ緊張感が窺い知れた。
午後の授業を終え職員室へ戻ると、デスクの上には義理チョコだと思われる小さな箱が山積みになっていたりして、自分に「鈍感!」と八つ当たりしてきた化学教師の言葉を思い出す。
…確かにその通りなのだろう。
しかしそのお祭りも、日が傾き学校から生徒が居なくなった時点で終わりを遂げる。
教室や廊下に紅い光が差し込む様は、逆に違和感を覚えてしまうほどいつもの日常で、今日一日のお祭りを一瞬にして忘れ去ったかのようだ。
それは単なる気のせいであって、その特別なお祭りさえも、別に何も特別ではなく『日常』の一部であるだけのことなのだけど。
廊下を歩き、向う先は保健室。
昼に保健室へ行けと命令したきり、一度も姿を見ずそして何の音沙汰もないから、おそらく未だ寝ているか横になっているかしているのだろう。
まだ頭痛が治らないのならば、さてどうやって家に連れ帰ろうかと思考を巡らせながらガラガラと保健室の扉を開けると。
そこには何事もなかったかのような、体調が悪いそぶりなど全くなく、丸椅子に腰掛け文庫本を読みふける化学教師の姿があった。
…いや、違う。これは、
「…片割れか」
ファイの、双子の弟だった。
「…片割れじゃなくて、ユゥイって言うんですけど」
黒鋼の言葉に顔を上げたユゥイが、にこ、と微笑んで文庫本をパタリと閉じる。
「片割れとか、いつもファイを基準に言うのやめてほしいなー」
そして、兄の口調を真似て言葉が続く。
その言葉に毒が混じっているように感じるのは、おそらく黒鋼の気のせいではない。
奥に備え付けてあるベッドを見ると、すぅすぅと気持ちよさそうに寝息をたてて眠るファイを見つけた。
やはりまだ寝ていたらしい。
「お昼に廊下で、ファイとすれ違ったんです。具合が悪そうで、どうしたの?って聞いたら、頭痛いって言うから」
言いながら、おもむろに腰を上げる。
「顔も赤いし、熱もあるのかと思って、保健室行ってきたら?って言ったら、うん、今から行くーって」
そして正面から、じっと顔を見据えられた。
「オレ、すごく驚いたんです。自分から保健室に行こうだなんて、まず頭に浮かびさえしない人だから」
「…そうだな」
見据えられた視線は外されることはなく。
「保健室へ行けって言ったのは、黒鋼先生でしょう?」
それが問いではなく確認だったのは、こいつが化学教師の双子の弟だからか。
「よくわかってるじゃねぇか」
「まぁね」
にこ、と微笑む顔だけは、へにゃへにゃ笑う化学教師と似ても似つかない。
「ファイは、黒鋼先生の言うことなら大人しく聞くんだな、て」
「そうでもないぞ」
「そうかな」
話題の元となる張本人は、未だすぅすぅと夢の中。
もしかしたら、黒鋼が想像していた以上に頭痛は酷かったのかもしれない。
「黒鋼先生、これからもファイのことよろしくお願いしますね。ファイは、無理しやすいから」
蒼の瞳も金の髪も、全て同じ風貌で頼まれる。
しかしその中身は、やっぱり似て非なるもので。
「じゃあ後は、黒鋼先生にお任せします」
そしてすたすたと、扉に向って歩きはじめた。
腹の中を読むことが一筋縄ではいかないあたりは、似ているところか。
「…無理をしやすいのは、アンタもだろ」
その背に向けて、一言だけ言ってやる。
一瞬だけ、歩くスピードが少し遅くなった気がした。
「…よくわかってるじゃないですか」
「まぁな」
だが歩を止めることはなく、そのままピシャリと保健室の扉は閉められた。
その、自分に、どこか棘のある言葉を言うことこそが。
無理をしている、証なのだろう?