「…う〜。うぅ〜…。ううぅ〜…」
ガチャリと化学準備室の扉を開け、まず目に飛び込んできたものは。部屋の南側についている窓の隣で、太陽の光を一身に受けながら丸まっている、大きな大きな猫の姿だった。
折しもこの冬一番の寒さとなった今日、暖房器具だけではこの寒がりの化学教師を温めることが出来なかったらしい。
白衣を身に纏ったまま太陽の光を受けるファイは、その髪の金糸と白い肌と相成りとてもキラキラしていて、おもわず目を奪われてしまう。
「何うめき声あげてんだ」
奪われた目を現実に引き戻し、相変わらずう〜う〜と唸るこの白猫に声をかけると。
「あぁ〜黒たん来ちゃった…。いらっしゃい…」
来て欲しくなかったとでも言いたげな返事に、黒鋼の眉間は深い皺を作る。
しかし化学教師を見やると顔が若干青みを帯びていて、体調が悪いのかとすぐ思い当った。
「どうした」
「う〜…頭痛い…」
なるほど、言われてみればさっきから頭を押さえて唸っている。
しかし朝は元気に人をからかって遊んでいたはずだが。
「なんでいきなりそうなるんだ」
「…頭ががんがんするよ〜…。だってほら、今日とても天気いいし、お日さまのせいだよー…」
ファイは答えを言ったつもりだろうが、しかし黒鋼には全く意味がわからない。お日さまがなぜ人の体調を悪化させるのだ。
頭の上にはてなマークを浮かべた黒鋼に、ファイは少し苦笑いを浮かべて。
「お日さまがまぶしいとときどき編頭痛が起こるのー」
ようやく黒鋼は合点がいった。
「あーあ、でも何でよりによって今日頭痛が起こるのかなぁ…」
合点がいったと思ったらまた次の謎の言葉を化学教師が呟く。
ファイはいつもいつも唐突で、人の思考回路のことなどおかまいなしに会話をするのだ。
「なんで今日だと都合が悪いんだ」
しかし長い付き合いでそれはすでに慣れっこで、根気よくその会話の真意を探っていく。
だがファイから漏れたものは溢れんばかりの長い長い溜息で、黒鋼の眉間の皺はよりいっそう深くなる。
「黒たんにはそこらへん全く期待してないから別にいいけどさー…」
呟かれた言葉は非難じみたもので、非難される覚えのない黒鋼、相手が病人だということを忘れて思わず声を荒げてしまう。
「何が期待してないだ!」
「も〜全部!何もかも!オレ頭痛いんだからちょっと機嫌悪いんですー!」
全部とは何事だ。そして人にあたらないでほしい。
「意味わかんねぇよ」
「も〜黒様の鈍感!ばか!何年一緒に過ごしてきたと思ってんの!今日はバレンタインでしょ!」
…………なるほど。
答えを言われてようやく今日の行事を思い出した。
叫んだせいで頭に響いたのか、ファイが頭を押さえてぎゅっと顔をしかめる。
「黒るんが覚えてないのなんかいつものことだから別に気にしてないけど」
「じゃあ何そんなに不機嫌になってんだ」
答えは近づくもいまだに真意が見当たらない。
「今年は何を作ろうかなーとか、毎年チョコ作っても黒様あんまり嬉しそうじゃなかったから、じゃあチョコじゃなくても和菓子なら食べてくれるかなーとか、いろいろ考えてたけど今日は無理です、お菓子見たら吐きそうですとか、勝手に一人で空回ってるだけだから黒たんは気にしないでいいよー」
そしてふいっと横を向いてしまった。
何の脈絡もないファイの言葉に、黒鋼はようやく全てのことの成り行きを理解した。
なるほど、これはつまり。
自分を思ってくれているが故の、不機嫌なのだろうか?
「別にバレンタインなんかそこまで気にかけなくてもいいだろ」
「そんなこと言うから黒様女の子にモテないんだよー、女心をちっとも理解してないー」
「おまえ女じゃないだろ」
「そんなこと関係ないー!」
不機嫌が治らないファイ、ひとつひとつの言葉にいつも以上に反応してくる。
頭痛を耐えながら、しかしその頭痛のことなど二の次で、行事をきちんと遂行できなかった自分に機嫌を損ねているこの化学教師。
その不機嫌の理由がなんともいえないほど可愛くて。
「だから、わざわざこの日にきちんと行事を遂行するこたないだろ」
そして体調を気遣って、寝ころぶ化学教師を覗きこみ、軽く、触れるだけのキスを、ひとつ。
「頭痛が治ったらまた作れ。豆大福なら食ってやる」
覗きこんだまま囁く、尊大な言葉。
対して見上げる化学教師には、見開いた眼とほてった顔が。
黒鋼は行事を覚えられないが、しかしファイも、こういったことにいつまでたっても慣れる気配はない。
時計の針が十三時三十分を差し、それと同時にチャイムの音が鳴り響く。
「おまえ午後授業は」
「…ない」
「じゃあ保健室にでも行っとけ」
「……わかった」
呆けたように受け答えをする化学教師を残し、体育教師は授業の為部屋を後にした。
窓から太陽がきらきらと降り注ぐ中。
そこには、すっかりほてって温まった白い猫の姿が残された。