バタンッと、激しい音が、薄暗く狭い部屋に響き渡り。次いで聞こえてくる、ガチャリ、という音。
それは、どうすることも出来ない程、絶大な力。閉じられたドアを、決して開けることは出来ず。立ち塞がる鉄の壁へ抗う術は無く、物が錯乱しゴミが溢れる四畳半の狭い部屋は、世界から切り取られ、孤立する。
ドアが閉まる音と鍵をかける音で、押さえ付ける力の大きさと、自分の無力さを思い知らされて。全ての世界が色を無くす程の絶望と、心に大きな空虚を感じ、そして深い穴を空けてゆくばかり。
それでもその遮断された世界にも、救いがひとつも無い訳ではなく。この孤立した世界に有無を言わさず閉じ込められるのは、自分だけではなくて。
自分と全く同じ姿をした片割れも、隣で同じ感情を抱いている筈で。金色の髪はボサボサで、薄汚れた服と、そして何も映していないような蒼い瞳。それはおそらく、そのまま自分を写した姿。
ただただ強大な力で押さえ付けられるだけの、真っ暗な日々を、二人きりで。
信じられるものなど何もない中で、繋いだ手だけは確かなもので。
ずっとずっと、たった二人で。
だけど二人だったから、こんなどうしようもない日々を、生きていけると。
繋いだ手に、ぎゅっと、力を込めた。決して離しはしないように。
ずっと一緒に、生きて行こう、と。
―毒―
日も傾く夕暮れ時に、学ラン姿のまま、鞄を右肩から背中に回すように乱暴に掴み、歩き慣れた道を進む。途中に通りかかるコンビニには毎日お世話になっていて、おそらく常連客として店員に認識されていることだろう。いつものように立ち寄り、菓子パン二つと調理パン一つ、そして違うブランドの煙草を二箱、レジに差し出す。学ラン姿の黒鋼に煙草を簡単に売ってしまうこの店の店員は、いつもやる気が無さそうだ。
そこから先は、たとえ目を瞑っていても辿り着ける自信がある程、通い慣れた道だ。大通りを直進し、三つめの角を右折し、途端に狭くなる道を少し歩くと。
見えてくるのは、何百年と歴史を語れそうな程、高くそびえたつ巨大な木。そしてその隣には、何百年とは言わずとも、十数年は歴史を歩んでいそうな、古い木造アパートが。
目的の地は、ここの二階の左端にある小さな部屋。丁度下に生い茂る大木の隣に位置しており、全体的に薄暗いこのアパートの中でも、とりわけ薄暗い部屋だ。
隙間から下を覗ける上に、塗装が剥がれている、下手をすれば底が抜けてしまいそうな階段を上り、錆び付いた扉の前へたどり着く。その扉に鍵がかかっていないことを知っている黒鋼は、迷うことなく扉を開けて。
やはり薄暗く狭い部屋の中、目に入ったものは、畳の上に散らばる金の髪と。
薄暗い部屋に拍車をかけるように辺りにたちこめる、白い煙。
玄関の反対に位置する窓際に足を向ける形で畳に寝そべる金髪の持ち主が、口にくわえている煙草を手に持ち、ふぅっと白い息を吐いた。
部屋に漂う白い靄に、濃度が増す。
「未成年が煙草吸うな」
「何今更いい子ぶってんの。どうせ黒様も吸うんでしょ?」
勝手に部屋に入られたことなど何も気にせぬように、寧ろ黒鋼が来ることが当たり前のように言葉を交す
。
顔も合わさず、はい、と差し出された百円ライターを受取ると、学ランの詰め襟を外しながら、黒鋼はどかりと腰をおろした。
「気が利くじゃねぇか」
白いビニール袋をあさり、小さな小箱を取り出す。トントンと煙草の先を軽く叩き、葉を詰めて火をつけた。ついでに、袋の中から出てきたもう一つの小箱を、寝そべったままのファイに向かって放り投げてやる。
「あ、ありがとう。ごめんね、いつも」
ファイが寝そべったまま見上げるように首をあげ、そこで今日初めて二人は目を合わせた。
部屋に漂うKOOLの香りの中に、セブンスターの香りが混じってゆく。
狭く薄暗い部屋は酷く殺風景で、生活する上で必要最低限な物しか置かれていない。テレビすら無いのだから、相当なことだろう。もう一度セブンスターを深く肺に入れ、灰皿変わりの空き缶にトンっと灰を落とした。
「今日は学校どうだった?」
「……別に何もねぇよ」
問われた言葉に、黒鋼はおもわず顔をしかめてしまう。
「ふーん、相変わらずなんだね」
「……聞くくらいなら学校来い」
至極全うな意見を言ってみても、やはりこの金髪はえへへーっと笑うだけだ。
「もうすぐテストなんじゃない?」
「そういえばそんなことを言ってたな」
「教えてあげようか?どうせまた赤点取りそうなんでしょ?」
相変わらず、人の神経を逆撫でするような事を簡単に言い放つ奴である。だが、頭が良いことは紛れもない事実だ。一体どういう構造をしているのか、授業に出ていなくとも、教科書に一通り目を通すだけでなんとなく内容を理解できる、と言うのだ。それは、黒鋼にはとても信じられないような現象である。
「黒ろんのことだから、化学とかさっぱりわからないんじゃない?」
「ほっとけ」
からかい混じりのその申し出を一蹴し、吸い込んだ煙をふぅっと吐いた。三分の一程の長さになった煙草を空き缶に捨てると、ジュッと音が聞こえ、立ち上っていた煙が消えた。
「でも英語とか古典は苦手だから、ユゥイに聞いてね」
人の話など聞いていないように、またもからかい混じりの言葉を、ファイが呟いた。
なんでもないことのように。
それが当たり前であるかのように。
決して叶わぬその内容を、何の疑いもなく、口走る。
「……いいから、ほっとけ」
自然と出してしまった、苦虫を潰したような顔を見られてしまわないように。気付かれないよう視線をそらし、同じ言葉を繰り返した。
ファイが学校に来なくなってから、そして殆んど家から出なくなってから、およそ半年の月日が流れた。
半年前の、四月二十一日。
時刻は、午後五時三十七分。
それはあまりにもあっけなく、唐突に訪れた出来事だった。その衝撃と喪失感は、黒鋼にも大きなショックを与えたのだが、元々危なっかしい精神の持ち主だったファイは、それからずっと、あの出来事から現実に戻ってこれずにいる。
「あと、歴史もユゥイの方がいいかな」
この家は、半年前から時計が止まったままだ。壁にかけられた時計はきちんと進んでいようと、時間は進まない。
何も進んじゃいやしない。
「……聞かなくてもできる」
「えー、それ絶対嘘だ」
にこにこ笑う顔も、減らず口も、半年前から、ずっと、このまま。
思えば、半年前のあの日すら。
こいつは、決して涙は見せなかった。
きっと、あの日より少し前から、ずっと時間は止まったままなのだ。
何度も吐かれるその‘異常’な言葉に、黒鋼は内心盛大に溜め息を吐いた。
その異常を指摘してやるべきなのか。
このまま、気付かないふりをして、その異常に付き合ってやるべきなのか。
どちらが正しい道なのか、黒鋼はまだ、計り知れずにいる。
癖なのか、それともファイの性格から来るものか、ファイはフィルターぎりぎりの所まで、惜しむように煙草を吸う。よいしょ、と寝転ぶ体を起こし、長い時間をかけて味わった煙草を空き缶に捨てると、そのまま間発入れずに新しい煙草に火をつけた。
その間に、ふるっと小さく身震いして、耐えるように身を固めたファイの様子を、黒鋼は決して見逃しはせず。
眉間に刻まれる皺は、より一層深くなった。
「……寒ぃのか」
「うん……最近すごく寒いよね」
部屋の窓から見える大木は、葉をほんのりと紅色に染め、もう一月もすれば、一斉に地面へ散ってゆくだろう。風も段々と冷たくなってきて、そろそろ上に何か羽織らなければ、朝方と夕方は寒さに耐えられなくなってきた。
だけど。
その寒さは、ぶ厚いトレーナーを着る程でも、さらにその上にカーディガンまで羽織る程でも、ない。まだ十月の始めだと言うのに、冬のような格好をしているファイの手は、指元まで隠す長い袖から少しだけ出ていて、小さくカタカタと震えていた。白くて細い、体温を少しも感じさせない指は、見ていてとても、痛々しくて。そして、特別大きいサイズでもないトレーナーとカーディガンが、日に日にファイの体に合わずぶかぶかになっていく様も、また。
寒さの原因は、明らかに、カロリー摂取量の、異常なまでの少なさのせいだ。
部屋の隅に転がるパンの袋は、昨日黒鋼が買い与えたものだ。中身は、半分も減ってはいない。
ファイが食べ物を殆んど口にしなくなってから、もう、結構な時が立つ。
それで、体が持つ筈が無いのだ。
袖から覗く白い手の甲は、血管が浮き出て、骨の形がわかるほど。腕も足首も、
首すらもそれは一緒で、何かの拍子でぼきりと折れてしまいそうだ。
カタカタと震える手を見かねて自分の手を合わせると、想像通り、人間とは思えない程冷たい手が。
それはまるで、死人であるかのように。
或いは、動き微笑むだけの、人形であるかのように。
以前、だんだんと食が細くなってゆくファイに無理矢理食べさせたら、あっさりと、戻してしまったことがあった。
戻しても、体調が悪いから、と一言で済ませるファイは、自分が‘食べられなくなっている’ことに気付いてもいない。
無意識のうちに、生きることを、放棄してしまっているのだ。
「……飯食え」
「うん、今日もありがとう。後で食べるね」
その言葉は今日もきっと、数時間後に嘘になる。明日はもっと、カタカタと寒さに震えているのだろう。
この家には、暖房器具が無い。このままでは、本当に冬の間に死んでしまうのではないだろうか。
外を見ると、太陽はすっかり地上から消え去っていた。細い月が上空に見えるということは、時計の針はもう八時か九時を指しているのだろう。昼間から薄暗いこの部屋は、寝る時以外はずっと蛍光灯を付けているから、どうしても時間の感覚が鈍ってしまうのだ。
「……じゃあ、また明日来る」
「はぁい、気を付けてね」
ずっと握っていたというのに冷たいままの手を離してしまうと、寒さに耐えきれず凍りついてしまいそうな気がして、手放すことは後ろ髪を引かれる思いだったけれど。まだ高校生の身分である黒鋼は、自分の家や生活全てをおざなりにして、この家に入り浸っている訳にもいかず。
だけど、もうそろそろ、そんな悠長な事は言っていられなくなってきた。
ファイの異常は、目に見えて深刻化している。
目を離すことが、こんなにも、怖い。
誰か側に居てやらないと、本当に、壊れてしまうのではないか。
じゃあね、と続けられた言葉をつむぐ口は青白く、真冬の中を外に放り出された人のように、震えていた。
パタン、と閉じた扉が、いつものように鍵がかかる気配が無いことも。
扉の奥では、きっとまた立て続けに煙草に火を点けているだろうことも。
その全てが、ぎりぎりに保たれているファイの日常なのである。
半年間、異常と共に、それでもなんとか、生きていたけれど。
ぎこちない日常でも、日々を生きていけるならばそれでいいと、今までずっと付き合ってきた。
だけど。
崩壊の時は、だんだんと、すぐ目の前に迫っているのだと。
ぎりぎりの日常は全てが幻で、もう、どうしようもないほど、ガタがきてしまっている。
このままでは、本当に。
だけど一体、どうすればいいのだろう?
焦燥感だけ沸き上がるくせに、なんの策も浮かばない自分の無力さに、腹が立つ。
苛立ちに任せてコンクリートを殴った右手の拳が、じんじんと痛かった。
焦りと苛立ちだけが募ってゆく。出来るなら、もう少しだけ、この日常を保つことが出来ないだろうか、と。たとえただの時間稼ぎだとしても、それでも。
だけど現実は決して甘くなく、その時は、予想外な出来事によって、あっさりと訪れてしまった。
それは半年前と同じように、あっけなく。
いとも簡単に、ぎこちない日常は終わりを遂げた。
あの時、あの冷え切った手を離さなかったならば。
事態は少しでも、変わっていたのだろうか。
陽が真上まで昇っても、この部屋は相変わらず薄暗い。朝も昼も夕方も、それは変わることはない。時間の感覚がわからなくなる程だから、いつでも夜のようなものなのだ。
光が当たらない窓際で、分厚い布団の中に潜り込んで、ファイはまだ夢の中にいた。正確には、夢と現実の狭間の、ぼんやりとした意識の中。何が本物なのか、曖昧になってしまう世界を、彷徨いながら。
だから。
コンコン、と扉を叩く音が現実のものだと、すぐに気付くことは出来なかった。
「居ないんですか?!」
コンコン、という音は、次第にドンドン、と激しい音に変わり、扉の向こうから聞こえる年配の女性の声も、だんだんと強い調子になる。その音と声に虚ろの世界から現実に引き戻されて、ファイはようやく目を覚ました。
―この声は、大家さん、かな?
そういえば、今月の家賃まだ払ってなかったっけ…。
ぼんやりとした頭を無理矢理覚醒させて、急いで体を起こそうとする。
「…本当に居ないねぇ。鍵は開いてるのに」
その言葉と共に、無遠慮にドアがガチャリと開けられて、ファイは慌てて立ち上がった。返事をしなければと、立ち上がると同時に口を開いた、瞬間。
突然、視界が、ぐらりと、揺れた。
発した筈の声はただの空気となり、体に力が入らなくなって、とっさに壁に手を当て、倒れることは防いだけれど。
返事をするタイミングを、失ってしまって。
ドアは、ばたんっと閉められる。
条件反射のように、体がビクリ、と強張った。
壁によりかかり、まだぐらつく視界で、震えるように、玄関に視線を移す。
―思い出すのは、幼い頃の、昔の、記憶。理不尽な力で、押さえ付けられているだけの。
ガチャ、と、鍵穴に鍵を差し込む音が響く。
どうして。
どうして?
どうして、また。
――鍵は、とても、怖いもの。
そんなファイなど、ドアの向こうの人物は知る由も無く。
ガチャリ、と、鍵が閉められる音が、部屋中に響き渡った。
ゴミが溢れる、狭い部屋。
ここよりもずっと、薄暗かった所。
その小さな世界しか、知らなかった頃。太陽すらも知ることが出来なかった、あの孤立した場所。
また、世界が、孤立してしまう。
体がカタカタと震えていた。
心臓の音が五月蝿い。
景色が揺れる。
ぐらりと回る世界が、暗闇に変わる。
―閉じ込められたら、もう二度と、出られない。
幼い頃に植え付けられた感情は、脆く壊れそうになっていたファイを、あっさりと呑み込んで。
震える手が、何かに縋りつくように、くしゃくしゃと金の髪を掴む。
全ての世界を遮断するように、頭に当てる手で耳も塞いで。
……誰か。
ユゥイは?
ユゥイは何処?
記憶の中に存在していた筈のもう一つの手を求めて伸ばした手は、何も掴むことは無く。
空を切って辿りついたものは、ただの、灰皿変わりの空き缶だけで。
居ない。
誰も居ない。
一人。
独り。
……ひとり?
かすれる声で叫ぶ音が、自分から出ているものだと気付く間も無く。
ぐらりと揺れていた部屋も、色の無い世界も、心臓の音も、突然消え失せて。
ファイの意識は、プツリと、途切れた。
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堕ちることなど、怖くない。