六畳一間の小さな部屋に、響き渡るピアノの音。
学園にいらない電子ピアノがあるという侑子の言葉から、ありがたく頂戴してきたのである。
弾き慣れていない電子ピアノだが、防音装置のないこの部屋にとってはとてもありがたい。
「これ、昔弾いてた曲だねー」
するとおもむろに、背後から声がかかった。
「ファイはやっぱり耳がいいね」
手を止めることなく言葉を返す。
双子の兄がやってきたのは、半時ほど前。
理由は「ばたばたしてて、ゆっくりと話せなかったからー」らしい。
そのまま何をするでもなく、フローリングにひかれたカーペットにごろんと仰向けに寝転がってしまった。
そして「ピアノが聞きたいな」のリクエストの答えて、今に至る。
「ピアノを聞くのは久しぶりだな」
「そうなの?」
「うん。黒様といるとピアノなんて聞くことないしねー」
出てきた名前に、ユゥイの心はちくりと痛む。これでもう、何度目だろうか?
「黒たん牛乳飲めないから、カフェオレ飲むのも久しぶりだよー」
そして上半身だけを起こして、先ほど淹れたカフェオレを口に含む。
ずっと二人一緒だったのに。二人だけの色に染まっていたのに。
いつの間にかファイは、自分の知らない色を身に纏っていた。
それはきっと、さっきから繰り返されるひとつの名前の持ち主によって。
「ユゥイがイタリアに行ってから、いろんなことがあったんだよー」
自分がイタリアに行ってから、ファイの世界は自分が居ないところにまで広がってしまった。
「先生って結構大変だけど、でも黒様で遊ぶと楽しいから大変なのも忘れるしー」
昔は絶対に、人に心を開くことなどなかったのに。
「だからオレ、やっぱり先生になってよかったなーって」
―これ以上、聞きたくない。
「ユゥイ?どうしたの?」
唐突に途切れたピアノの音に驚き、ファイが心配そうな声をかけてきた。
「なんでもないよ、弾く気が失せただけ」
そしてくるっと後ろを振り返る。
「……よかったね、楽しそうで」
「うん、すっごく楽しいー」
人の気持ちに敏感なこの兄が、どうして自分に関することだけはことさら鈍感になるのだろうか。
天真爛漫に話す言葉が、弾む声が、すごく、痛い。
「でも、今こんなに楽しいのは、ユゥイのおかげでもあるんだよー」
「……どうして?」
「だってユゥイ大好きだもんー」
「……そう」
その意味合いは、自分とは大分違っているのだろうけれど。
「だからね、一言だけ言っておきたくて」
ふにゃ、と笑う顔だけは、小さい頃から一つも変わっていなくて。
「小さい頃からいつも、ありがとう」
そんな言葉は、聞きたくない。
耳を塞いでしまいたい。
お願いだから、もう口を開かないで。
―ずっと一緒に居たかった。ずっと二人で居たかった。
その言葉を吐いてしまいたくて、でもどうしても口に出来なくて。
言葉を飲み込んだまま、喉が、焼けただれてしまいそうだ。
「……どういたしまして」
だけどどんなに願おうとも。
もう、昔みたいに戻ることは、二度とないのだろうから。
―口を吐く嘘は、またも喉を燃やしゆくばかりだ。